―夕映え作戦―








夕立はやはり降ったが、6限目の授業の最中に雨は上がったので、幸いなことに帰宅中に濡れずにすんだわけだ。幸いなことといったらもう一つ、今日は彼女に会わなかった。本当に幸運だろう。いつもは何かにつけて僕と合おうとするくせに今日は一度も会うことはなかった。
 彼女も萩原と同じで多忙なな人間だ。たぶん生徒会の仕事が忙しくて会いにこれなかっただけだろう。幸運なことなのだが、なんだが調子が狂うというか、まるで肩透かしをくらったみたいだ。
「よっと」
 大きな水溜りを飛び越える。
「やぁ、オーナー」
 もう一度大きな水溜りを飛び越える。
「おーい、君のことだよ」
 そうして歩き出す。本当になんでこの道は水溜りが多いのだろうか、困りものだ。
「聞いてるー?」
「え?」
 慎重に振り向く。そこには2メートルは有るだろう大きな金髪の外人が立っていた。顔はこちらを向いている。ていうか、この場に僕しかいない。
「やっと気づいてくれた」
「え?あの、なんですか?」
 外人に喋り掛けられるなんて初めての体験だ。道案内だろうか?
「やぁやぁ、オーナー」
 オーナー?新手の客引きだろうか、それにしては軟派というかスーツ着てるしどちらかと言うか海外出張のサラリーマンのように見える。
「私は『ロンドン』から来ました。ミハイルと言います」
 そう言って気さくに笑いかけるミハイルという外人、薬でも売られるのだろうか、最近その手の話は聞かないけれど、もしかしたらもあるのだから、用心はしておこう。
「ロンドンからですか、それは遠いところから」
「?…あぁ、そうですかそうですよね」
 流暢な日本語でミハイルは笑い、僕を見る。
「?」
「そうですよね。ロンドンじゃわからないですよね。君は一般人だからね、ロンドンだけじゃわからないよね」
 一人納得してるし
「私はね。ロンドン魔法結社の者です」
 あぁ、早く帰ろう。うん帰ろう。
「待ってぇ!」
 すっごい必死だな、この電波外人、いくら日本が二次元に寛容でも、いきなり会った人間に自分は魔法結社の人間です、なんて流石に許容範囲外だ。
「すいません、流石に…」
「そんな嫌そうな顔しないで!君だって知ってるだろう吸血鬼を!」
「え!?」
 思考が止まる。吸血鬼、それは僕にとっていや僕と彼女にとても意味のある言葉だった。
「ほら、知ってる」
「し、知らない。そんな世迷言」
「知ってるはずだよ?君だろ?吸血『姫』に血を与えているのは?遠藤 昴くん」
「!」
 把握されてる。
「調べによれば一年前だっけ、『吸血姫』に出会ったのは」
 一年前、思い出したくもない。
「彼女と出会ったのは何年も前だけど、転生した『吸血姫(きゅうけつき) 』の力が現れだしたのは2年前くらいかな。流石に一年、血を飲まなかったら暴走もするよね。うん」
「…」
 ドクン、ドクン、妙に心臓の音が響く。
「私はね、異形専門の魔法使いさ」
 魔法使い、一年前助けてくれたのは妖怪ハンターだっけ。
「だから人を殺すなんてことしたくないんだ。だから」
「だから…」
「吸血姫の下まで案内してくれないかな」
「なん、で」
「死にたくは、ないだろう?」
 瞬間、突き刺すような殺気が僕を貫いた。足が震える、手も、唇も、何より頭が脳が現実を見ようとしない。
 悲鳴を上げたい。でも、魔法使いの目がそれを許してくれない。助けを呼ぶことも、叫ぶこともできない、まるで蛇に睨まれた蛙だ。
 何か、何か考えろ。頭がいいことが僕の取得だろ、こういう時に生かさずいつ生かす。考えろ、今僕にもっとも最善を、最良を、思考を、思惑を、巡らせろ、もっともよい考えを導き出せ。
「家に、居るんじゃないんですか?」
「それが居なかったのさ。だから君を訪ねたのさ。たぶん私が来たことを何かしら感づいたのだろう」
 そしてまるで意地悪そうに顔を歪め彼は笑った。
「案内してよ」
 それは、列記とした脅しだ。恐怖だ。彼に近づいてはいけない。だが背いてもいけない。その行為は死を意味している、と僕は思った。何をしても僕は彼に従わなければいけない。
 最良など、最善など今の僕には選ぶものがなかった。
「あ…は、はい」
「うん、素直でいいね日本人は」
 僕は歩き出す。僕が考えうる彼女の行き場所を頭に浮かべ、自分の足で、そうそれがとても怖かった。
「君と彼女の関係は?」
 後ろから話しかけられる。
 ゴクリ、まるで尋問を受けてるようだ。夏だから汗は掻くが、いつもの二倍は汗が出ているような気がした。
「昔馴染みです」
「へぇ」
「今はただの…」
「ただの?」
「…他人です」
 僕は、僕は悪くない。こいつが悪いのだ。こいつが僕を殺すなんていうから、彼女を裏切ることに、いや僕は裏切ってなんかいない。脅迫されてたんだ。
 ずっと頭は彼女にいう言い訳を考えていた。
「大丈夫、君は悪くない。罪悪感に駆られることはない。だってそうだろ?全部悪いのは吸血姫だ」
「は…い」
「君は吸血鬼についてどれくらい知っているんだい?見たところ素人にしか見えないけれど」
「えっと…日の明かりに弱いとか十字架に弱いとか…後、吸血鬼化は血を吸った吸血鬼の任意よって吸血鬼化できるとか」
「あぁ、そうか最後のは一年前に聞いたんだろ?樋口だっけ、東洋にも大した退魔使がいるみたいだね。うん、そうさ吸血鬼は自分たちの任意で血を吸った人間を吸血鬼に出来る。だから血を吸われたからと言って絶対に吸血鬼になることはないんだ。何より吸血鬼にとっても、それは大事なことだ。吸血鬼にとって人間の血ってのはとても必要な物でね。そんな鼠算式に吸血鬼を増やしてらんないんだよ。食料と捕食者のバランスを崩すわけにはいかないからね。吸血鬼ってのは仲間意識が高い。いや、血の意識が高いんんだ。だから、同じ血族の吸血鬼の血を吸うことはしないし、してはいけない。所謂暗黙の了解であり、戒律みたいなものさ」
 そう言って彼は僕の背中から話しかける。
「まぁ、そんな訳で、吸血鬼にとって人間は永続的に存在していないといけない存在なんだ。それで人は考えた。血を分け与える代わりにその大きな力を貸して欲しい、と。吸血鬼にとってなかなかいい取引だ。吸血鬼にとって生きにくい世界になった現代。だから継続的に血を吸うことが出来尚且つ問題にならない、とても吸血鬼にとっていい取引だろう?そして人は吸血鬼のその人外の力を使い犯罪に手を染める。
 言うなら血で雇った殺し屋だ。そんな関係をオーナーとアガシオンと言うのさ」
「オーナーとアガシオン?」
「そう、血を分け与える人の方を『宿主(オーナー) 』、血で雇われた吸血鬼の方を『使魔(アガシオン) 』というのさ」
 だからこの男は最初に僕をオーナーと呼んだわけか、納得した。だがそれがわかったといって現状が打破できたわけでもなく、本当にどうしようもなく八方塞だ。
 誰か体のいいヒーローでも現れてくれればいいのに、たぶん僕が警察に駆け込んだところでこいつは僕を殺すだろう。人を殺す目、死をなんとも思わない無慈悲な瞳、それがわかった。あの碧眼は余りにも人を殺しなれてると僕はそう思ったのだ。
 恐怖に打ち勝つ勇気など僕にはないのだ。悲しいほどに。
「まぁ、そんな訳で君たちの関係もこれに付随するわけだ」
 そう言って彼は、男は、魔法使いは締めくくった。
 10分は歩いただろう。
「一つ聞いていいですか?」
 そこで初めて僕は、僕自身から話題を振ることに成功した。
「なんだい?」
「彼女に会って、貴方はどうするんですか?」
 ハハハ、と空笑いをする魔法使い。
「確かに、ちゃんと明言はしていなかったね。ただ君に案内して欲しいと言っただけだからね。彼女をどうするか、それは余りにも簡単さ、私が異形を殺す、という理念に従っているからさ。そう彼女に会ったら、私は彼女を殺す。吸血姫が完全に覚醒する前に」
「覚醒…」
「そう覚醒。君にも一応話しておこうかな。吸血鬼の血の大元、吸血鬼の先祖、原発の吸血鬼、彼には名はない、私たちは真祖・始祖と読んでいるけれど、その子供、6人の姫君、原発の吸血鬼の力を受け継いだ6人の吸血鬼のことを吸血姫と呼んでいるんだ。吸血の姫、彼女たちは老いる。人と同じように、そして老死する。普通の吸血鬼ってのは老死はしない。だって不老だからね。彼女たちは血の原発、血は進化し不老の力を得たが彼女たちはそれを得ることは出来ない、だから彼女たちは考えた。永遠の生を、そして一つの方法を思いついたのさ」
 一拍置き、魔法使いは語った。
「魂の転移を」
「魂の転移?」
「そう彼女たちは普通の吸血鬼にはない、原発の力を持っている。そう戦闘能力、知識、そういうものは今の吸血鬼より優れていたのさ。だから彼女たちは死んだ自分の魂をランダムに人の魂の中に転移させる術を編み出した。そして人の魂を喰らいつくし自分の体としてしまう、そうして彼女たちは何世紀をも生き続けていった。そう彼女たちの魂が完全に覚醒した瞬間、彼女の魂は…喰らいつくされ死ぬ」
 何なんだ。今まで知らない話、今まで知っていたふりをしていたみたいじゃないか、あの樋口とかいう妖怪ハンターはそんなことは言ってなかった。一つも、そんな話を匂わせていなかった。
 吸血姫が覚醒したら、彼女は死ぬ。肉体の死ではなく、魂の死だ。そんな話聞いた覚えはない。あの樋口という男は病気のようなモノといった。ただ血を吸わなければ生きていけなくなっただけ、少し身体能力が上がっただけ、そうじゃないのだ。死の宣告は既に受けていたのだ。彼女が血を必要とした吸血鬼化が始まった二年前から。
「そうなれば彼女たちは色々とするだろうな。例を上げれば一つの都市の生命を全て喰らいつくすとかね」
「え?」
「地図からこの街をなくすのさ」
「…」
 言葉が出なかった。
「…つきました」
 足を止める。たぶんここだろう。いや、きっとここだ。
「ここは…」
 閑静な住宅街の中、ぽっかりと空いた場所にある。本当に隠れたと言っていいほど誰もいない、小さな小さな神社だ。周りに木が生えまるでこの神社と住宅街を区切っているように見える。
 まるでこの場所だけ時間が止まっているようにさえ感じる。この住宅街の切り離された小さな忘れられた神社、余りにも静かだった。蝉のうるさいくらいの鳴き声が聞こえない。ただ風が通りぬけていく。
 夕日がこの神社を照らしていた。日が落ちていく。
「…沙世」
 僕は、彼女の名前を読んだ。この場所は彼女がいつも隠れる場所だ。昔から、忘れた記憶の片隅に残る小さな幻影、いつも沙世は母に怒られるとここで泣いていた。何か考えるときにもここにくる。ここは彼女だけの世界だった。
 忘れられた神社、誰も寄り付かない寂れた神社、そこでいつも彼女は泣いたり怒ったり考えたりしていた。
 だから、たぶん彼女はここにいる。どんな場所よりも彼女はここにいる。そう確信できた。
 だから神社の賽銭箱の裏から出てきた時、少しも驚かなかった。
「昴様…」
 ぎょっと沙世は目をひん剥く。そして魔法使いは僕の前に出た。堂々と両手を広げ何かに祝福されているわけでもないのに、魔法使いは沙世の前に出た。
「やぁ、こんにちは、風見 沙世さん」
「…」
 沙世は僕を見た。
 目と目が合う。僕はその目を避けた。怖かった。彼女はたぶん裏切られた、と思っているに違いない。しょうがないじゃないか、僕は……殺されるかも知れなかったのだから。
「君の中の血が逃げるようにしたのでしょうね。でももう逃げれませんよ」
「…私は死になくない」
「でしょうね。徐々に知識が移っているみたいですね。吸血姫の完全覚醒まで秒読みと言ったところですね」
「私は………私?え?私は?」
 まるで自分を忘れたように自問自答する沙世、その姿は異常だった。苦しそうに顔を歪めて両手を頭に当て苦しんでいる。
 そこで魔法使いは動いた。懐から小さな瓶を取り出しコルクの栓を抜く。そして一度横に振る。当然水は瓶の口から出る。だがそこで異常が起こった。水が止まったのだ。まるで水の時間が止まったように、瓶の口から水が飛び出たまま止まっている。それはさながら剣のように見えた。
「六名の吸血姫の中の一柱、『夜の女王(ナイツ・ナイト・ナイトメア) 』貴方を今から浄化します。ただの水ではありませんよ?聖水ですから」
 魔法使いはそう告げると走った。水の剣をたて、まるでそれは貫くように先端は沙世を向いている。だがその水の剣は空を貫く。一瞬で沙世が右に跳んだのだ。
「わ……たしは…助けて………助けて」
 うわ言のように沙世は言葉を呟く。
 助けて欲しいのは僕の方だ。僕があの男を連れてきたから彼女は殺される。いや、違う。どうせ遅かれ早かれ彼女はあの男に殺されていた。風見 沙世としてではなく吸血姫として。だから僕が罪悪感を抱く必要なんてないんだ。そう、ないはずなんだ。
 そうだ逃げよう、僕はただの案内人なんだから、そう逃げよう、今すぐ、人の死ぬところなんて見たくないじゃないか、そうだ逃げよう。
 なかったことにしよう。何もなかった。今日は何もなかった。何も見てない聞いてない、だから早くこの場所から逃げよう。
「助けて………助けてよ!昴くん!」
「え?」
 今まで聞いた事のない沙世の声が聞こえた。嗚咽混じりで聞き取りにくい。でも僕にははっきりと聞こえた。
「……助け、て…す、ば…る、く、ん」
「…!」
 反則だ!あんなの僕は知らない。僕は悪くない。僕は悪くない、悪くない。あんな声聞いたことがない。聞いてない、だから知らない。
「助けてよぉ……昴、く、ん」
「うるさぁぁい!僕は、僕は悪くない!」
 助けを求めるな!僕が求める側だ。知ったことか、知るか

「僕は、お前の事なんか、知らない!」

 そう言って駆け出す。逃げるんだ。僕は悪くない、悪くなんてないんだ。悪いのは皆だ。僕は巻き込まれたんだ。一年前だって今だって、だから僕は助けられるべき人間なんだ。だから僕は逃げるんだ。助けるなんて馬鹿げてる。死にたくない。死んだら終わりだ。僕は生きるんだ。生きなきゃいけない人種なんだ。助けを求めるならそこら辺の馬鹿な男たちに助けを求めろ、僕じゃない誰かに。
 自らに抱いている罪悪感が鬱陶しくて堪らない。吐き出したい。この胸の苦しみのはけ口が欲しい。息苦しくて息苦しくて、助けて欲しい。
 ぶつかる肩、振り返る人々、でもそんなものどうでもよかった。叫びたかった。楽になりたかった。でも何故か出来ない。僕は強い人間だと言うちっぽけなプライドが邪魔するのだ。
「げほげほ」
 咳き込みながら前のめりになるかたちで通りを抜ける。当り散らしたい。爆発しそうだ。感情が思いがどいつもこいつも五月蝿くて邪魔で鬱陶しく見える、聞こえる、感じる。
 夕日は今だ空に居た。まるで帰ることなどないかのように。
 いつも通りに回っている世界が非常識に感じてしまう。僕はこんなに苦しい一日をおくっているというのに、そんなもの知らないと言わんばかりになんの変哲もなく変化もなく誰も僕の苦しみをわかっていない、知らない、知りえないのだろう。
 蝉の声は聞こえなくなっていた。
 いや、音が聞こえなくなっていた。
 まるで僕は違う世界にいるようだった。魔法使い、吸血姫、知っているけど、知りえない世界が僕を侵食している。
「…くそ」
 悪態をつくことでさえ苦しくなっていた。
 胸が息苦しくて声が出しにくい。
「やぁ、少年」
「!」
「逃げるのかい?」
「樋口…」
 樋口 竜次朗、自称妖怪ハンター、一年前、暴走した沙世を助けた人物、僕の命の恩人にあたる人だ。
「…どういうことだ」
「あぁ、吸血姫の話か…」
 ばつが悪そうに顔を歪めながら銀縁眼鏡を持ち上げ樋口は空を仰いだ。
「別に隠そうとしたわけじゃないんだ。ただ、君には心配を掛けたくなかったからね。普通に事が進んでいれば彼女の魂からは吸血姫を追い出すことは出来たんだ」
「え?」
「本当なら、ね。でも誰かさんが彼女の気持ちになかなか答えてあげないから、ストレスが溜まったんだろうね。ストレスが膨張しすぎたんだ。吸血姫にとって都合がよかっただろうね。ストレスってのは人の心にとって多大な消耗を産む、それによって彼女の吸血鬼化は僕の都合を遥かに越えた進行速度で早まったんだ」
「僕のせいだって言うのか?」
「あぁ、そうだよ」
「ふっざけんな!何で僕のせいなんだよ!」
「普通通りなら、この時期に彼女の魂から吸血姫の魂が浮き出るからね、そこを狙って吸血姫の魂だけ浄化できる、はずだったんだけど。進行しすぎた。彼女の魂と吸血姫の魂が限りなく同一になりすぎている。これじゃぁ僕では無理だ」
「助ける方法がないってのか?殺すしか方法はないってのか!?」
 余りにも絶望的すぎる。
「その通りだ」
 あっさりと彼は肯定した。助けようとしていた彼はあっさりと沙世を見捨てた。自分には出来ないからと、僕以上の力を持ちながらにしてあっさりと放棄した。
「てめぇ!沙世を助けろよ!前みたいにさ!その力があれば!」
「あれば?君だって逃げて来ただろう。自分では無理だ、と助ける権利を放棄して逃げてきたんだろ?」
 それは疑問系の言葉なのに、まるで肯定されているようだった。事実、肯定だった。余りにも的を射た答えだ。そして事実だ。
「しょうがないだろ!僕にはお前見たいな力も、魔法使いのような魔法も持ってないんだ!普通なんだ。特別でも異常でもない。普通なんだよ!」
 助けたくても助けれない。いつだってそうだ。僕には力が無さ過ぎた。拾えるものも拾えない。
「そうやって自分は普通だと言って逃げ道を作るのはどうかと思うよ、正直さ。何?自分に力がないから逃げてきたって言いたいのかい?馬鹿馬鹿しい、助けたくても助けれない?鬱陶しい、拾えるものも拾えない?実に腹ただしい、そうやって君はいつも逃げてきたんだろ、一年前も、さ。力があるから助けなければならないのかい?違うだろ、君はわかっているはずだ。君は優しいふりをした偽善者だ。可哀相とでも思っておけば心が楽になるからね。そうやって君はいつも理由をつけて逃げてきたんだろ?今みたいに力がないから、とか時間が無いから、ただ助けたくないだけだろ、自分が大事なんだろ。そんなに君に僕が従う通りはないだろ」
「…ッ」
 言い返す言葉が見当たらない。言い返したのに、何がわかると言い散らしてやりたい、でも口をついてでるのは息と声にならない声だけだった。
「ぅ……な、ら」
 嗚咽だった。
 僕は泣いているらしい。頬を伝う涙、知っていた。知らないふりをしていただけなんだ。
涙は逃げてくる時から流れてた。知ってたんだ。でも、それを肯定したくなかった。
 咳をきって出てくる嗚咽、知りたくなかった。僕は本当に弱いと思いたくなかった。自分で弱いと言いながら心の底でそうでない、と思っていた。それが少しのプライドだったのかもしれな、けれど今は違う。心の底から自分は弱いと知られてしまった。何より自分でも肯定してしまった。心の底から、嗚咽が出たのは僕のプライドが壊れたからだろう。本当にちっぽけなプライドそれにすがり付いていたのだ。
「ど、したら、助けれるん、だよ!何もないんだ。僕には…何も!助けたくても!助けたくても何にもないんだ。僕は身も心も弱いんだ。もう馬鹿みたいなプライドもない、ちっぽけな人間なんだ」
「あぁ、君はちっぽけな人間だ。でも、君は僕より彼女を助けることが出来る」
「え?」
「その指輪、ただの指輪だと思ったのかい?」
「え?これは婆ちゃんの指輪…」
「そうか、君の祖母から譲り受けたのか、それは何とも運命的だね」
 こいつは何を言っているのだろうか、首から提げている指輪を手に取りながら樋口と指輪を交互に見る。
「『破魔』、魔を破る絶対的力、魔と付く全てを打ち消す力、魔除けのお札とかこの手の種類の力だね。でも君の持っている指輪は魔除けのお札、そんな物と一緒に出来る代物じゃない。人の思いには力が宿る。君の祖母の力だろうね、『君を守る』という思いが詰まった『破魔の指輪』これを現持ち主である君が彼女の指に通してあげなさい、どの指でもいい通すんだ。それで君は彼女を救える。他の誰でもない君が、だ」
 まるで悟っていたかのように、まるでこの場面を想像していたかのようにニヒルに樋口は笑った。その笑顔は呆れているようだったけど、一つも鼻につかない不思議な笑み。
 婆ちゃんは僕に指輪をあげる時こう言った
『この指輪はね。おじいちゃんから貰ったんだけどね、お祖母ちゃんには小さすぎて入らないんだ。だから上げるよ昴に』
『ほんとう?』
『あぁ、だけど一つだけ約束しなさい。お前が守りたいと思う人にこの指輪をおやり』
『……うん、わかった』
『流石、私の孫だ。物分りがいいよ』
 そう言って快活に笑っていた。でも、それから数日後婆ちゃんは無くなった。寿命だったらしい。まるで自分が死ぬことを見越していたみたいだった。
「守りたい人…」
 昔なら沙世がすぐに浮かんだのかもしれない。でも、今はどうかわからない。だって僕と彼女は昔馴染みであるだけだからだ。
「助けたいんだろ?遠藤 昴」
 助けたい。
 けれど
「考えるばかりじゃなくて行動をしろ!」
「!」
 叱咤された。その声はまるで教師のようなよく透る声だった。
「早く行け!理由が無ければ行動が出来ないのか!理由が無ければ助けないのか!」
「…そうじゃない」
「なら走れ!勝負は太陽が沈むまで!時間はもうないんだ!」
「…!」
 黍を返し走り出す。
 夕日は今だ空に居る。まるで待っていたみたいだ。それはたぶん錯覚だ。わかってるけれど、そう思えた。ほんの一瞬だけど神様に祈った。
 僕がつくまで照らしていてくれ。
 走らなければ、人ごみを掻き分けることなどせず、つっきって行く、それはまるで突貫に近かったかもしれない。何人もの人が僕に向け罵声を浴びせるけれど僕には聞こえない。聞こえてはいるけれど、聞こえないふりをした。今僕にはやらなければいけないのだ。
 始めて人の為に必死になっているのだ。それくらい多めに見て欲しい。
 今まで僕に出来なかったことなのだ。今やらずして何時やるというのだ。
 難しい理由など要らない。僕が助けたいと思ったから、それが理由だ。単純明快な理由、それだけで僕は走っている。
「はぁ…はぁ」
 足がうまく動かない。息がしにくい、でも走らなければ、吸血姫が覚醒する事は今どうでもいいのだ。今僕が走っているのはこの街の十数万の人口の為ではない、たった一人の昔馴染みの為に走っているのだ。
「動け!助けるんだ!」
 自分を鼓舞して走る。後少しなのだ。後もう少し走ればあの神社に着くのだ。ついて僕は彼女を助けなければ、いつも助けてくれる彼女を僕が助けなければ、このちっぽけな指輪で。
「沙世!」
 僕が神社の境内に入ったときさっきまでの様相とは違っていた。地面は抉れ木々は倒されていた。そして魔法使いは肩で息をしている。これだけ大きな破壊をしているのにも関わらず誰も気づかないのはおかしい。でも多分だけれど結界というやつだろうか、これまで来るときに小さな水の瓶が道端に目立たないよう置いてあった。あれは魔法使いをここまで案内する時に魔法使い自身が置いていった物だ。たぶんあれが結界を発動させる何かなのだろう。
「逃げたのではないのですか?」
 魔法使いは悪態をつきながら僕を見る。
「秘策を持ってきたんだよ」
 そう言って指輪を取り出す。今は紐でぶら下がった状態ではない。ちゃんと相手に付けれるようにする。
「何だ?羽虫か?嫌、違うなぁ」
 神社の屋根の上で立っているのは沙世の姿をした何かだった。片目は赤く染まっている。それは吸血鬼化が進んでいる証拠だと思う。既に日は半分沈みかかっている。
「遠藤 昴……この娘が思い寄せる男か」
 そう言って吸血姫は笑みを作った。
「助けに来た、か?」
「その通りだよ」
「ッハ何を世迷言を!たかが魔法も扱えぬ人間如きが、この吸血姫の一柱、『夜の女王』に挑むと言うのか?腹正しいぞ。人間、そこまで私を愚弄するとは」
 黒い長い髪を揺らし吸血姫は怒りに顔を歪めた。
「万死に値する!」「逃げろ!」
 吸血姫の叫びと魔法使いの忠告が重なる。
 瞬間、吸血姫は神社の屋根から跳んでいた。人間の脚力ではありえない跳躍、木を利用して再び跳躍、ほとんど僕の目には追いつけないスピードだ。
「死ね!」
「死ぬのはお前だ!」
 一瞬だった。いつの間にか眼前に居た吸血姫の尖った爪が光る。そして僕の腸を抉るようにその手が突き出された。

「ッ痛!」

 吸血姫は手を押さえ驚愕の目をしていた。
「やっぱり」
「貴様、何した!」
「ただ道端に落ちてた。水の瓶を全身にぶっ掛けただけだよ」
 たぶんだかがあの水の瓶は魔法使いが言っていた聖水が入っていたのだろう。
「ッ!油断した!」
「遅いんだよ!」
 一瞬の隙をついて腕を握り逃げようとした吸血姫を引き寄せる。
「な!」
「僕の勝ちだ」
 指輪を吸血姫の指に通す。くすんだダイヤモンドの指輪は小さく輝いていた。
 最後の残り香のように夕日は小さな光りを発している。その光りに照らされながら吸血姫は僕の手を振り解き、指輪を睨む。そして悟ったのだろう。
「まさか………そんな」
 指輪から群青色の光りが飛び出した。そしてその光りは一気に吸血姫を包み込んだ。浄化の光りと言ったところだろうか、だが吸血姫は苦しみもせず痛みに顔を歪める事無く、痛みを訴える事も無く、僕を見た。その目は怒りでも悲しみでも驚愕でもなかった。あったのは虚空、まるで虚ろだった。
「こんな人間が私の最後………あぁ、夜の月があと少しだというのに、何とも無様だ」
 そう自嘲し吸血姫は黒い髪を靡かせた。
「姉さまに近づきたかったのに……フェアリー姉さまに少しだけでもよかったのだけれどなぁ。私の最後………」
 魔法使いでは無く僕を見ている。僕に向けての言葉みたいだ。
 吸血姫は薄く笑った。
「遠藤 昴、ね。何の変哲も無い人間にやられたのか私は、何の力も無い人間に、ただ少し強力な指輪を持ってるだけのちっぽけな人間に」
「沙世を返してもらおうか」
「心配せずとも返す。せっかちだなぁ、昴。どうせ私は後数一分足らずといったとこだ。死を確定され、悪あがきをするほど私は無様な醜態を晒すきもないのだ」
 もう敵意も殺意もなくまるで友人と話すかのように気さくに吸血姫は語りかけてきた。本当に今さっき殺そうとした僕相手に、だ。
「絶対に死なないと思っておったのになぁ。お前はわかるか?昴」
「そんなもの分かるわけないだろ」
「だろうな、私の精神の年齢はざっと600歳と言ったところだろうしな。たかが数十年生きた人間如きにわかるはずもないのは当たり前だの。やっと私が世界に干渉できるところまで行ったのに、後少しなのになぁ。600年、人の体を渡り歩きこれで丁度10人目の転生の節目なのになぁ」
 そう言って忌々しげに地平線に落ちる太陽を睨んだ。そして笑った。
「私がこんな事を言うのもなんだが、やっと陽の目を拝めたはずなのになぁ、昴一つ聞きたい」
「な、なんだよ」
 僕に向き直り吸血姫は指差す。
「お前は、この女が好きなのか?」
「好き嫌いという枠じゃないというか…昔馴染みというか、なんと言うか」
「煮えきらん奴だなぁ」
 そう言ってズイズイと僕に向けて歩き出し僕の眼前で止まった。沙世と同じ容姿の筈なのに、余りにも違う。異質な雰囲気が吸血姫にあった。
「私も女だ。だからこやつの気持ちはよくわかる」
 そう言って自分の胸に手を当てる。多分、沙世のことを言っているのだろう。そして上目遣いで僕を睨んだ。
「そろそろ覚悟を決めるのだな」
 な、なんのだよ。
「お前が思うよりこやつは繊細な上に難しいやつだからのぉ、まぁこれ以上は言うまい、私が消えた後、こやつから言うだろうて」
 僕に背を向け再び離れる。その足取りはまるで千鳥足だ。ふらふらとふら付き今にでも倒れてしまいそうだ。何よりその体からは群青色の光りが空に上っていった。それはまるで吸血姫自身の存在のように僕には思えた。いや実際そうなのだろう。
 そうして向き直る。
 最後に吸血姫は夜空を仰いだ。
「私に相応しい小物的な終わり方だったよ、まったく、存外人生というのはこういうモノなのかもしれんな。運命も定めも懲り懲りだ。でも赦されるなら、もう一度お姉さまに合いたかった」
 目を閉じ吸血姫は最後を迎えた。群青色の光りは一気に立ち上り夜空に消えていく。それはまるで夜の闇に帰ったようだった。


 吸血鬼の姫、血と夜を統べる女王、月姫、吸血姫『夜の女王』後で知る話ではあるが、彼女の死は衝撃的だったらしい。退治する側にも退治される側にとっても、そう僕が知らない。裏の世界ではこの『夜の女王』が死んだことはとてつもない事件だったらしのだ。それを知るのはまた違う話ではあるのだが。










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